修験道とは

修験道とは何か、京都皇統の伝授
  南光房爾應(落合莞爾)

 {一}修験道とは何か
 辞典で「修験道」を検索すると、だいたい次のような解説がある。
    山へ籠もって厳しい修行を行うことにより、悟りを得ることを目的とする日本古来の山岳信仰が仏教に取り入れられた日本独特の宗教である。
   修験宗ともいう。修験道の実践者を修験者または山伏という。

 ようするに、「日本古来の山岳信仰が仏教と結合したもので、宗教としては修験宗と呼ばれる」というのであるが、これは次の点で明らかに間違っている。

 一、「日本古来」というのは狭すぎる。
   紀元前五五〇〇年ころメソポタミアで始まったウバイド文化を担ったウバイド人が世界に拡散し、各地の山岳で行った諸々の活動が修験道なのである。
 二、「仏教に取り入れられた」というのも受動的すぎる。修験道は仏教伝来の前から本邦に存在していたからである。
   本邦に仏教が伝来したのは六世紀で、正式受容(公伝)は五三八年とも五五二年とも言われるが、継体天皇二五年(五三一)に大宰府に来た北魏孝文帝の皇子善生が豊前国田川郡の英彦山にもたらしたとの伝承があり、高句麗の辺境だった羅津湊から日本海を渡ってきたから北伝仏教という。
   これとは別に、支那南朝の陳国皇帝陳覇先の皇孫仁聞が欽明十六(五五五)年に国東半島にもたらしたのが南伝仏教で、いずれも本質は仏教に潜入した彌勒(マイトレーヤ)信仰である。

 さて、ここで銘記すべきは、摩尼思想の奥義でマイトレーヤは「男女の双子」という秘伝で、六郷満山の中心たる両子山は、これを秘密本尊としているのである。つまり、六郷満山は仏教というより摩尼教または彌勒教と呼ぶのが正しく、また英彦山は摩尼教伝来の当初から神道色が優勢だが、善生が将来した北魏仏教も摩尼思想が侵入したことは明白である。
 それでは、なぜ摩尼教ないし彌勒教と呼ばずに仏教と呼ぶか?
そもそも宗教は自ら「何々教」と名乗らず、ただ「教え」と称するのが通例である。本邦に伝わった大乗仏教は、マイトレーヤを崇拝する「マニの教え」が潜入した仏教とみれば「摩尼教」が相応しいのだが、政体が統治手段として利用する都合から、「仏の教え」の称が優勢になったのである。
 つまり、修験道とは本邦に一万年前から存在してきたウバイド修験道が、六世紀に渡来した弥勒信仰と習合したものである。

  {二}修験道がミロク信仰であった証拠
 全国の名だたる山岳はすべて修験道の道場である。そのうち特定の山岳を三つ選んで「三大霊場」と呼ぶ例が多いが、その組み合わせに何種類もあるのは、それぞれに信奉者がいるからである。
 これら修験の霊場がことごとく、本尊(ないし重要な信仰対象)として祀る彌勒・毘沙門・弁天は、いずれも摩尼教の主神ないしその同体・化身である。すなわち、初期仏教は彌勒(マイトレーヤ)および毘沙門(ヴァイシュラバンナ)・弁天(サラスヴァティ)を奉祀しているので、修験道がはじめ摩尼教と習合したことを明示している。
 拙著『応神・欽明王朝と中華南朝の極秘計画』で初めて明らかにしたように、英彦山は北魏孝武帝の嫡子善生が五三一年に摩尼教を北伝した渡来地で、だからこそ英彦山は熊野・羽黒と並ぶ三大修験霊場として挙げられるのである。
 また、同著で述べたように、支那南朝陳の皇帝陳覇先の皇孫たる仁聞菩薩が
五五二年に仏教を南伝して国東半島の六郷満山両子寺の開山となった、と伝えられる。
 崇神時代に開かれた英彦山は北伝以前から古神道の祭祀場であったから、神道色が強く、北伝以後は神仏混交の彦山権現として信仰されたが、神宮寺として置かれた霊山寺に彌勒や毘沙門、弁天を祀っていたことは慥かである。
 六郷満山の中心の足曳山両子寺は本尊を不動明王とするが、他に両子大権現と称する男女一対の神像を奉じており、これこそ真のマイトレーヤの御姿と唱える。
 つまり摩尼教のマイトレーヤは、「男女の双生児」というのであるが、私見では摩尼思想の本髄は、世に言われる二元思想でなく「陰陽不二」なのである。
 英彦山と六郷満山の中間に位置する宇佐に、五七一年に設けられたのが宇佐神宮弥勒寺である。この地は応神天皇のときに半島から帰朝したヒノモト族(縄文人)と一緒に渡来したソグド人秦氏(呂氏)が定住するが、秦氏の宗教が摩尼教であることは、彼らの氏寺の太秦広隆寺がマイトレーヤを祀ることから明らかである。
 英彦山は中世に宇佐神宮彌勒寺の支配下に入り、奥の院が彌勒寺となったから、彌勒信仰が継続していたことは間違いない。
 ここで「仏教」といわず敢えて「摩尼教」と呼ぶのは、いうまでもなく、初期には摩尼教の主神を祀っていたからである。
 各地で在来宗教に潜入した摩尼教は、特有の人権意識と慈善思想で宗教を洗練し変質させたが、強権意識を欠くところから中世の政治制度に適応せず、鎮護国家の政体宗教としては弱体化したが、むしろ人権思想の民間信仰として成長した。
 その例は病者を介護する「四箇院」と弱者救済の「布施屋」および土木工事による道路・橋梁など社会的インフラの建設である。具体的に実行したのは四天王寺と、法相宗、行基集団であった。

 {三}世界の高山地帯に散った修験
 ウバイド人の子孫たる修験は世界各地の高山地帯たとえばアンデスに存在する。目下南米の各地で縄文遺跡が発掘されているが、遺物がケルト文物にも見えるのは、どちらも根元がウバイド文化だからである。
 本邦修験道の祖とされる神変大菩薩は、姓は「役」で名は「小角」と称し、六三四年の生まれで、大友皇子と大海人皇子が争った「壬申の乱」のときは三九歳であった。
 ここで京都皇統から伝授された秘実を明らかにすれば、有間皇子(六四〇生)
が六五八年に謀反の嫌疑を受けて絞刑に処せられたのは、実は八百長で、その後有間皇子は役行者のもとで修験道の修行を重ね、六七二年に起こった壬申の乱に紛れ、秘かに出国したのである。むろん一人でなく、近江王朝の皇族と蘇我赤兄はじめ側近を伴ったのである。
 満鮮国境の羅津に渡り、ステップ・ロードを経てウクライナから欧州に入った有間皇子は、フランク王国の執権ピピンⅡ世と入れ替わり、その庶子カール・マルテル(六八六~七四一)がフランク王国の執権となり、七三二年にトゥール・ポアチエの戦いでサラセン人を破ってイスラム勢力の西欧への侵入を防止したので、エドワード・ギボンの『ローマ帝国の衰亡』では「中世最高のプリンス」と讃えられた。
 その子ピピン短躯王がカロリング朝を開く。フランク王国のメロヴィング朝で代々執権の地位に就いたピピンの家名カロリングはウバイド語で「カルの・・」を意味するが、ヤマトの地名「軽」と同義で、有間皇子父孝徳天皇も「軽皇子」と呼ばれた。
 これからすると、日本皇統とカロリング家にはウバイド人同士としての交流があったとみて良い。縄文時代に日本列島に渡来したウバイド修験は、一万年の歴史を誇るが、日本では大伴氏の分流を称して「佐伯」を姓とし、同族は支那大陸で「陳」を称した。
 陳氏の姓は「媯」であるが、媯水とはアムダリア川を意味し、先祖がその川の畔すなわち現代のウズベキスタンに住んでいたことを意味する。つまり陳=佐伯氏はメソポタミアを出て、この辺に定住していたが、やがて支那に入り、三皇五帝の「舜」となる。
 支那で大姓となった陳氏から出た陳褘が玄奘三蔵で、インドで仏教の原典を探究し、実質摩尼教の法相宗の開祖となった。日本から渡った道昭が玄奘から直接法相宗を学び、帰朝して往生院を建てた。
 日本での弟子が行基菩薩で、初めは私度僧として律令制のもとで「小僧」と侮蔑されながら行基集団を組織して社会事業に携わり、民衆仏教として法相宗を広めた。民衆仏教とは、とりもなおさず摩尼教である。

 {四}修験者役小角と摩尼僧行基菩薩
 日本の山岳修験道を大成し、神変大菩薩を諡された役行者(役小角)は六三四年に大和国葛木上郡の茅原里(奈良県御所市茅原)で生まれ、生家は現在、本山修験宗の茅原山金剛寿院吉祥草寺となっている。
 役小角の出自は地祇の三輪氏系で、加茂族の分流として高鴨神を奉祀する高加茂朝臣で、小角の父は加茂役君大角と称し職掌は「役民」の管掌であったが、壬申の乱の功績で姓を君から朝臣に格上げされた。
 役民とは、古代のスーパー・ゼネコンであった土師氏集団の下層をなす肉体労働者のことで、古墳時代に労働力が不足したため新羅から呼んだ移民が大部分を占めていた。高加茂役君(高加茂のエダチの君)は新羅からの移民労働者の管理に任じていたのである。
 物部真鳥の娘トトキ姫を母とし物部氏の本拠二上山で修行した役小角は、父方の加茂神道、母方のモノノベ神道の双方から影響を受けたが、いずれにも偏らず、日本古来の山岳修験を集合して大成したと見るべきであろう。
 役行者が大和国吉野の金峯山で感得した金剛蔵王大権現は、安閑天皇すなわち勾金橋大兄皇子(マガリノカナハシノオホエの皇子)の別名であるから國體黄金との関係が窺える。
 役行者から三四年後れて、天智七(六六八)年に和泉国大鳥郡蜂田荘で生まれた行基菩薩の父の高志才智は越氏で、西文氏の一族とも土師氏の分流とも云われている。
 西文(カワチのフミ)氏の先祖王仁氏は百済から渡来したことで百済貴人の末裔とされてきたが、私見は、孝元天皇の皇子アマタラシ彦の子孫で百済に進出していた和邇氏一族が帰朝して、王仁氏を称したものとみる。
 和邇氏のみならず、熊野ウバイド族の田辺氏や、崇神天皇から発した上毛野国造の後裔上野氏が朝鮮半島南部に進出して任那を運営していたが、帰朝するや
『新選姓氏録』で「蕃別」とされたことで、いかにも外来人のごとく誤られているが、当時の半島南部に、本邦が継承する程の文字文化が存在しなかったことは慥かで、近年の研究は彼らを「渡来」でなく「里帰り」とみる方向にある。
 戦後の国史界が、いまだに王仁博士を帰化人とみる所以は、欠史八代説による古代天皇不在論に立つからで、孝元天皇を架空という限り、その子孫たる和邇氏がそもそも存在しないからである。
 つまり、行基の父方とされる西文氏は、百済から里帰りした王仁博士の後裔たる皇別氏族であるが、もう一説の土師氏も天神の「アメのホヒのミコト」の子孫とされるから、渡来人ではない。
 行基が学んだ法相宗は玄奘三蔵(陳褘チンキ)の後継者の慈恩大師(窺基)が開教した宗派で、飛鳥寺(法興寺)を拠点としたが、ここで行基は道昭から摩尼思想を学んだ。道昭が晩年に社会事業に専心したのは、摩尼思想に従ったもので、行基はその路線を引き継いだのである。
 役民の管理を職掌とする加茂役君から出た役行者は、職掌柄土木工事に関わり葛城に架橋せんとした話が伝わる。土師氏集団の下層として土木作業に携わった役民を使役し、かつその救済に勤しんだのが行基であるから、役小角との関係はいうまでもないが、明確に伝わっていない。
 ちなみに、高弟ながら小角を裏切り朝廷に密告した物部韓国広足は物部氏の里帰り組であるが、朝廷で薬療と祈祷に勤める典薬頭に任ぜられたことから、朝廷は修験を採用していなかったことが判る。

{五}修験道の本質
 以上で述べてきたが、要旨は
 一に、修験道の淵源がウバイド文化に発し、世界に散在すること。
 二に、修験道はウバイド文化に由来する摩尼思想と深い関係があること、
 三に、摩尼思想は多神教であるから神仏混交を厭わないこと、
 四に、摩尼思想が潜入した仏教が、中世の政治的要請で摩尼教に代わって表面化したこと、
 五に、修験道は神仏混交であるが、とくに不動明王を尊崇すること、である。
 修験道の精神はウバイド思想であって、根本はものごとの調和を尊ぶことで、
ウバイド修験はそのために自然に関するあらゆる知見を深めてきたから、鉱物植物に関する膨大な知識を集積しているが、極意はミネラルとアルカロイドであろう。ウバイド修験は、これを用いて日常の活動を行っている。日常の活動とは、ようするに国際および国内の政治に関する活動であるが、國體秘事に関わるものなので、ここで述べることができない。
 これに対して一般の修験者は山岳における修行が眼目であるが、単に肉体鍛錬に止まらず、修験道の根源に立ち返って、摩尼思想を会得することが肝要である。
 摩尼思想は人類の感得した最古の宗教で、その中核をなす思想は古来グノーシス思想と言われ、善悪対立の二元思想と説明されるが、これは一神教が生まれて以後に創造神を根本に置いた解釈と思われる。一神教以前には、善悪は対立観念でなく、抱合的観念であった。
 私見が会得したのは抱合的観念の本來的摩尼思想で、その基本は「一事両面」である。これは、あらゆる事物は一にして不即不離の両面が備わるもので、例えば陰陽の如く「陰」が有って「陽」があり、「陽」だけを切り離すことは不可能なのである。
 これからして、幸運と不運、幸と不幸、好きと嫌いも「一事の両面」と見るのが修験の思想である。つまり、「一事両面」の摩尼思想に立って、身辺も世相に対処するのが修験者の逝く道なのである。了

  令和二年十一月六日
     摩尼教行者 南光